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小原和紙の歴史

小原和紙工芸

小原和紙といえば「小原和紙工芸」を示すほどになっています。
小原和紙工芸は、和紙原料のコウゾを染色し、それを絵の具代わりに絵模様を漉き込んでゆく美術工芸品です。

 

小原における紙漉きの始まり

小原村詩によると、豊田市小原地域では室町時代の明応5(1496年)に僧柏庭により、旭地域に紙漉きが伝えられ、それが小原にもたされたと記されています。農閑期の副業として紙漉きが広まりました。紙の取引記録や地名などから江戸時代(1603~1868)中期頃には地域内の各地で紙漉きが営まれていたようです。明治9(1876)年には、27軒が紙漉きを営んでいた記録があります。当時は三河森下紙(番傘用紙)や障子紙、神社のお札紙などが漉かれました。しかし昭和になると洋紙やビニールなどの登場で和紙の需要は激減し、小原でも紙漉きを廃業する農家が後を絶ちませんでした。

 

昭和10(1935)年の小原における和紙の生産枚数記録

紙の種類(用途) 生産枚数(枚)
三河森下紙(番傘) 240000枚
煙火紙(花火類) 90000枚
装丁紙(本、帳簿)  4700枚
便箋紙(便箋)  800枚
色紙(書画用)  700枚
表装紙(表具裏打)  200枚
ハガキ  150枚
その他  100枚

 

小原製紙副業組合記録(昭和10年)

 

小原和紙工芸への道  藤井達吉との出会い

藤井達吉

           

 

藤井達吉は小原和紙の質の良さに目をつけ、その素材を生かしながらも単なる紙作りに終わらず美術品の域にまで高めた人物。小原和紙工芸の創始者として多くの継承者を生んでおり、屏風や掛軸等の作品は見る者の心を奪うほどの素晴らしさです。

藤井達吉は愛知県が生んだ偉大な芸術家です。明治から昭和にかけ、日本画を始め、陶芸、七宝金工、竹工、紙工、漆工、刺繍、染色、書、和歌など工芸のあらゆる分野で活躍し優れた作品を多く残しています。

昭和7年(1932)年10月または12月に藤井が小原を訪問し、紙漉き農家の山内家に滞在しました。山内家の襖(ふすま)には野草を漉き込んだ和紙が使われており、それを目にした藤井は和紙で工芸作品ができるのではないかと考えました。そして、手漉き和紙の先行きを懸念した藤井は、組合員に付加価値の高い和紙を作るように勧め、工芸の大切さを教えました。
藤井の言葉に感銘を受けた小原製紙副業組合では、昭和9(1934)年1月に藤井が再び来訪するのにあわせ、鈴木仙五郎、鈴木弥六、山内弥市の3名が特殊部員として一閑張(いっかんばり)の技術習得にあたりました。このときの来訪時には、一閑張のほか植物や鉱物を使った和紙の染色も学びました。生成り(きなり)の和紙しかしらなかった小原の紙漉きにとって、美しく染められた和紙を目の当たりにし、付加価値のある紙をつくる大切さを知りました。

 

小原和紙工芸の誕生

昭和7年から藤井の3度の訪問により、小原の紙漉きは美術工芸和紙へと歩み始めました。
そして昭和20(1945)年に藤井が小原に疎開したことでその方向が決定付けられました。
藤井は、現北大野町の鳥屋平(とやがひら)という山中に紙漉き共働工房、陶芸窯、画室、客室など多くの建物による小さなアトリエを建設しました。この芸術村とも言えるアトリエに、特殊部員の子供たちも小原の若者が通い、デッサンを日課とする厳しい指導を受け自然を見つめる観察眼を養うと共に、人として芸術家としての生き様を学びました。

 

昭和20(1945) *藤井が小原村へ疎開。北大野町の鳥屋平に工房を開く。
*特殊部の3人に加え、そのこどもたちも加わる。
*真鶴の石工、瀬戸の陶芸家などを呼び、工芸村を目指す。
*小原総合芸術研究会を発足させた。
*本格的な絵画的すきこみ絵を始める。
*染色したコウゾを絵の具代わりにして筆で描く。
*手芸の普及。対象は農家の女性、草木染、刺繍など
*数人がさまざまな理由で村を去り小原総合芸術研究会は解散する。
昭和22(1947) *日展(日本美術展覧会)に和紙漉き込み[つるし柿]が初入選
(共同制作)
昭和23(1948) *都会から小原に帰った若者が藤井のもとに通うようになる。
安藤敏和、小川喜数、春日井正義、加納俊治、山内一生ら
*小原工芸会を発足させる
*小原工芸会結成記念店を開催(小原村役場)
*3名の日展(日本美術展覧会)入選者を出す
昭和25(1950) *小原農村美術館を建設
*藤井は郷里碧南へ転居

 

藤井達吉年譜

1904年 セントルイス万国博ヘの作品出陳のため渡米。岡倉天心、横山大観、菱田春草、六角紫水と渡米。日露戦争起る

1911年 渋谷宮益坂に住み、吾楽会の会員となる。わが国における最初の工芸研究団体である

1912年 ヒューザン会ならびに国民美術協会の創立会員となる。
ヒューザン会は斉藤与里、高村光太郎、清宮彬、岸田劉生、万鉄五郎、浜田保光、木村荘八、
小島善太郎、小林徳三、岡本帰一、バーナードリーチ等の青年画家を中心に、彫刻の毛利教武、
川上邦世と工芸の藤井達吉を加えた33名によって組織されました。

国民美術協会は美術会の大家中堅を網羅して組織された団体。文展洋画部の審査員によって
結成されていたグループを発展させたので日本画、洋画、彫刻、工芸、建築の主だった者の外、
学者や評論家も含めて、理事に森鴎外、黒田清輝、岩村透、松丘映丘、和田英作を推して大正
元年十一月に結成しました。文展(文部省美術展覧会)

1914年 日本美術院再興。二科会創立

1918年 津田清楓等と官展に工芸をいれる運動をする。

1919年 高村豊周等と装飾美術協会を結成する。
高村豊周(たかむらとよちか)は高村光雲の三男、高村光太郎の弟である
この年、芝の二本榎から東京市外大井町庚塚(現品川区)へ移っている。
二本榎の宅のすぐ近くには島崎藤村の家族が住んでいて、親しかったという。藤村との交わりの中で高めてきた芸術的な識見と、工芸家としての実力を縦横に発揮しながら広い範囲にわたる啓蒙
活動を繰り広げることになる。

1921年 雑誌 主婦之友に手芸製作法の執筆を始める。

1923年 東京白木屋、名古屋いとう呉服店、大阪白木屋にて家庭手芸展を開催する。

1924年 主婦之友社主催 家庭手芸品展覧会開設、審査に当たる。

1925年 高村豊周、山本安曇、広川松五郎との 可志和会工芸展ならびに歌人橋田東声との
合作夏帯展を白木屋で開催する。

1926年 広川松五郎、木村和一と三越にて 三ッ葉会美術染色作品展を開催。

1927年 主婦之友社より、家庭で出来る手芸品製作法全集を出版。
帝展に第四部、工芸を設置。帝展(帝国美術院展覧会)

1930年 博文館より、美術工芸の手ほどきを出版。
名古屋市民美術展に工芸部が設置され、審査員となる。
この頃、工芸界から離れる。

1931年 伝統工芸の調査復活の旅に出立、名古屋の長母寺、瀬戸の法雲寺に滞在する。

1932年 小原に入って、和紙工芸の指導を始め、静岡県水窪に古い祭りを探り、猿投の古窯を
発掘し、麦袋に瀬戸陶業の歴史を尋ねる。

1933年 藤井達吉創作染色図案集を文雅堂より刊行。
東京に戻り、十一月 第一回郷土工芸社展を白木屋にて開催。

1935年 初めての四国遍路。この年、大井より神奈川県足柄郡真鶴町に移る。
帝展、いわゆる松田改組によって文展となる。

1936年 勝利彦、水野双鶴、近田清を伴って四国遍路。
九月白木屋にて藤井達吉先生作品展を開催。

1938年 肉筆図案集 路傍 50部完成。
この年真鶴に住宅を新築する。

1942年 照宮成子内親王(てるのみやしげこないしんのう)の御成婚祝賀献納屏風の製作にかかり、翌年完成。
 
1945年 姉篠、姪悦子と小原村に疎開。
鳥屋平にて敗戦を迎え、小原総合芸術研究会を発足。
 
1947年 「万葉和歌植物絵巻」および「万葉和歌植物画帖」を描きあげる。
小原和紙工芸の育成に力を尽して日展入選作品を出す。
小原総合芸術研究会を解散する。
 
1948年 「小原工芸会」を創設し、同会より3名の日展入選者を出す。
 
1949年 愛知県商工館における「小原工芸会、作品発表会」開催に尽力する。
 
1950年 鳥屋平より碧南市新川道場山に転居。
 
1951年 白木屋にて戦後最初の個展開催。
 
1953年 愛知県文化館へ寄贈する自作ならびに所蔵美術品2千余点中の第一回分を納入する。
 
1954年 名古屋城内にて県への寄贈作品による「名残りの会」を開催。
 
1955年 愛知県総合芸術研究会発足。
芝白金の迎賓館にて個展開催。倉内実により談話速記「達吉談話」(仮称)が作られる。
 
1956年 1月 碧南より沼津市松下町塩崎家に移る。
3月 碧南市教育委員会「碧南市史資料、藤井達吉翁」刊行。
9月 沼津より岡崎市岩津町井之口斉藤家に転居。
 
1957年 貴寿記念展を愛知県美術館と名古屋美術倶楽部で開催し、記念歌集「くらまくら」を上梓。
夏を白骨温泉で過ごした後、井之口にて一宮真清田神社の屏風を製作する。
 
1959年 愛知県総合芸術研究会主催「藤井達吉先生を中心とする美術工芸展」を愛知県美術館
にて開催。
 
1960年 1月小原村を訪れる。東泉寺に紙の歌の歌碑建立。
3月 神奈川県湯河原町吉浜安江農園住宅に転居。
 
1961年 自伝的随筆「矢作堤」執筆。
 
1962年 5月 安藤繁和、春日井正義同道、姉篠と四国遍路をする。
7月 岡崎市戸崎町に転居し、愛知県美術館と名古屋美術倶楽部にて新作を発表。
 
1963年 4月 岡崎市へ継色紙と屏風百一点を寄贈して、神奈川県湯河原町吉浜へ転居。
 
1964年 4月 野々山道雄、小沢一同道、姉篠と四国遍路をする。
7月 岡崎市戸崎町の家に戻る。
8月 岡崎市民病院に入院、27日心臓麻痺にて逝去。